ド田舎文藝部の暇潰し

都留文で人文

【物語版】卒論奮闘記録(前編)

 どうも僕には相容れないものがある。

 それは人であったり、数学だったり、セロリだったりと、時と場合によって変化するのだが、今回は一つの熟語を指す。

 それは「計画性」だ。彼との付き合い方だけは、今もなお分からない。

 長い人生を振り返ってみても、計画を立てて行動したことが果たしてあっただろうか。夏休みの宿題は配られたその日か最終日にやるものだし、締切前日のレポートは酒の勢いで書くものだ。計画性で僕が誇れるのは、十月十日で母親の腹から出てきたことくらいしかない。

 

 そんな人間のため、今後も「計画性」と付き合うつもりは断じてないつもりだった。しかし、得てして出会いというものは唐突なものである。

 7月の夕暮れ、5限のゼミでその時はやってくる。どうやら、「卒論題目」の提出をしなければならないらしい。

 「これはマズい」、僕は肌で感じた。この「題目」とやらを見る限り、公的文書としか思えない。自分の名前だけでなく、指導教員の名前が必要なことがそれを物語っている。

「変更は1回きりだよー」

 重要な場面に反して、指導教員の呑気な声が飛んでくる。尊厳のために釈明しておくが、僕の指導教員は元々呑気な声である。

 

 さて、困ったものである。ここで題目を提出すれば、卒論は一つの方向を目指し始める。100%の力で「もうやりきるしかないさ」という状況が生まれるのだ。

 計画性が無い僕にとってはこれが苦痛だ。8月から12月まで、同じことを努力し続けるしかない。そもそも資料すら揃っていないのに、どう卒論を書けというだろう。

 生まれた時から崖っぷち。こうして僕と卒論と死闘は幕を開けた。

 

 伝え忘れたが、僕は歴史ゼミに所属している。地域社会学科という、ローカルなのかソーシャルなのかよく分からない学科の中では、珍しく人文学をやるゼミだ。なので、学科の中でも少々浮いていたりする。

 そんな歴史学の論文に必須なものが、歴史的史料だ。これが無ければ話にならない。

 歴史的史料とは何か、という問題だが、ものすごく簡単に言えば過去の遺物である。自分の書きたい論文のテーマに沿った史料を集めることから、歴史学の論文は始まる。これが無いと、「ぼくのかんがえたさいきょうのれきし」という妄想記事になってしまう。

 僕は「明治十年代のコレラ流行における国家と民衆」という題目で提出したため、「明治十年代」の「コレラ」に関わる、「国家」と「民衆」の史料を集める必要がある。ここまで範囲が狭くて見つかるのか、とお思いの人もいるだろうが、明治国家の文書くらいなら多くが活字化されているため、簡単に見つかったりする。

 問題は民衆の文書である。そもそもこの時代には、文字を書くことができる民衆が少ないため、文書の絶対数は嫌でも減ってしまう。

 

 ではどうやって見つけるのか? 先に結論を言うと、「気合い」である。

 根性だとか、気合いだとか、そういったものは昭和運動部の観念だと思っていないだろうか。理知的で崇高なアカデミズムの世界は、存外にも気合いで成立している。素振りの数だけ打率が上がるのと一緒で、読んだ論文の数だけ論文は論理的になる。

 僕は目的の史料を探し当てるため、図書館のありとある「コレラ」にまつわる本を探した。10kgはある本を担いで家に帰るその姿は、もはや運動部と遜色ない。まさに卒論筋トレである。

 

 図書館と自宅を何往復しただろうか。1ヶ月かかったこの努力は裏切らない。どうにか目的の文書を見つけることができた。その名は「コレラ騒擾私記」。この文書の全編を探して、解釈を行えば、晴れて僕の論文のゴールが見えてくる。

 かの有名なパンドラの箱は最後に希望が残っていた。ちなみに「コレラ騒擾私記」の最後に残っていたのは絶望である。

 なんと、この文書は個人所蔵だったのだ。つまり書籍として出回っていない。恐らくコピーを含めても、この世界に10とない文書だろう。

 そんな文書を入手することが、卒論の至上命題となった。題目を「明治十年代のコレラ流行における国家」にしておけば、こんな苦労はしなかった。

 後悔の念とともに、文書入手へ向けて動き出したのは、10月も終わる頃のことである。

 

 

たぶんつづく。

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