ド田舎文藝部の暇潰し

都留文で人文

メンヘラ論

こんちは。たまには俗物的なものでも喋ります。当然ですが科学的根拠のない妄想なので、皆さんは馬の耳にでもなったつもりで聞いてください。

ちなみに、Twitterで声の強い「政治とジェンダー」について書きあげたんだけど、今年はプレ就活だったので投稿やめます。感情論でこれらを語るな、政治的中立への志向はただの政治的無関心じゃないのか、教えて公共政策論ゼミ。

 

はい、本題。

ネットに存在していると「メンヘラ」という単語をよく聞きますが、こいつらはどういう存在なのかを考えてみただけの話です。

 

とりあえず人間の行動原理を「内発的」か「外発的」の二分されているという前提に立ちます。ウェーバーに怒られそう。

もう少し解説すると、「外発的」は外からの影響を受けて行動するもの、例えばお駄賃だったりとか、他者の評価だったりとかで、「内発的」は自分がどうしたいかで行動するものです。森田ファンは主体性、受動性で分けていただいても構いません。

 

で、この二つですが、「私はどっちの属性」っていうよりも、併存する存在なんじゃないかと思います。外発性、内発性のパラメーターがそれぞれ僕らには存在しているということです。

そして、どっちのパラメーターが高いかで、どういう属性か決まるみたいなもんじゃないかとラーメンを茹でながら勝手に感じました。

 

じゃあみんな大好き「メンヘラ」ってのはどんな人だって話です。

個人的には「外発性」のパラメーターがぶっ飛んで高い人なんじゃないかと思います。他者からの評価を気にしながら生きていくような人みたいな。そして、それがモチベーションになってたりするんでしょうか。

そもそも僕らは大方、他者からの評価をもって生きていく生物なので、メンヘラも度合いで考えるべきなんですけどね。というか、先生からの成績を気にしながら生きなきゃいけない教育を受けてきた僕らの外発性のパラメーターが高いのは当然です。

 

その調和を考えてんのかなんだか知りませんが、今の時代はヤケに「内発性」を重視します。「自分で考えて行動しましょう」「自分で物事を判断しましょう」とか学習指導要領とかの目標にもなってます。

元から無い論理を飛躍させると、逆説的にこの現象は「自己責任意識」をより強くさせるとも言えます。外から言われたことを行動原理にすると責任の所在は外になりますが、内発性を重視すると、「お前が決めたんだろ」で一蹴されてしまうことが予想されます。

まあつまり「自由で気ままな生き方」にも責任が伴います。内発性もいいことばかりじゃないですね。

 

ついでに言うと、内発性がぶっ飛んでいる(ように僕は思う)自称「インフルエンサー」みたいなフリーランスさんがネットには跋扈していますが、彼らの一部は「今時期のライターはコロナウイルスについて書いてみて稼ぐチャンスだ!」などと言う社会の害悪を生み出すような言説を我が物顔で述べているのです。外からの評価も意識しないとこういうバケモノが登場します。

 

恐らく外発性は協調性というものにも繋がりますので、この点では優れたとこだと思います。全員が全員ホリ〇モンみたいに個人の利益を優先しますと、社会はきっと回らないでしょう。

 

ちなみにここで「メンヘラは自分勝手だろ!」という反論を思いつきました。外からの評価を積極的に求めにいくということですかね?  それとも内発性と外発性どっちもぶっ飛んでるのか?  わからん。そもそもメンヘラは自分勝手なのだろうか。

 

つまり何かって、「どっちも大事」です。まあ中立はありえないんですけどね。締めが思いつかないので、メンヘラはそれなりに丁重にしましょうってことで。

 

それじゃあまた。