ド田舎文藝部の暇潰し

都留文で人文

おや……?やきにくのようすが??

久々に店で焼肉を食べた。

 

人の金で焼肉が食べたい

などというホモ・サピエンスの鑑のような信条を常に抱き続けている私だが、今回は自費だ。慈悲も無い。

 

酒を飲まないと決めていたので米を注文したのだけれど、米がなかなか来ない。むしろ肉のが早かった。せっかちな肉だな。

脂のたんまり乗ったカルビを食って違和感。

 

米がなくても食えるな?

 

いいや、少し待て、待て待て待て、焼肉と言えば米だろう。真っ白なキャンパスに描く脂とタレの社交ダンス。これこそが焼肉の醍醐味じゃあないのか。現代日本人は焼肉の精神すら忘れてしまったのか、先祖に顔向けができない。

 

いいや、こっちこそ待て。そもそも焼肉に米は必要だったか。思い返せ、今までの焼肉を。みなさんも自分のヤキニクロードを重ね合わせて読んでみてください。

 

 

【幼少期】

焼肉に野菜は不要である。

誰だこの国家主義者は。

そう、普段から栄養だのなんだのでケチをつけられて食ってる野菜から解放される食事こそが焼肉だったのだ。

このころの私な焼肉といえば「カルビ」と「サガリ」しか知らず、焼肉はこのふたつの肉のみで構成されていた。どちらかと言えば自民族中心主義者である。

そして「彼ら」には優劣があった。

 

カルビは脂が乗ってて美味しい。

 

ガリは脂が無くて美味しくない。

 

この時代は脂の有無で肉の優劣が決められていた。そんな彼がトントロを食ったらどうなるのか実験してみたくて堪らない。

ついでに言うと「サガリ=下がり」という連想ゲームを村一番の知将もとい池沼の私はできていたので、「カルビが下がったのがサガリかぁ」などと勝手に思っていた。村の牛さんに顔向けできない。

先ほどから、村、村などと発言しているが、私が巨大都市サッポロに引っ越す前までは、人口よりも家畜の方が多いのではと思われるほどの村に住んでいた。ちなみに実際に調べてみたら人口のが多かった。これでカルビとサガリしか知らないというのだから、そりゃあ徳川家康鎖国に失敗するわけである。

 

【中学生】

肉より女の尻を追っかけていた思春期である。どっちも同じ肉であるのに、どうもこう差がつくのだろうか。カッコイイからというカッコ悪い理由でサッカーしてたような人間だから当然であろう。

ともあれ毎日炎天下の中で球蹴りと球拾いに勤しんでいた私は食べ盛りだった。肉と米とタレがあれば永遠に食うような人間だったため、こいつにカルビもサガリもヘチマも無かったと思う。幼少期よりタチが悪い。

しかし考えてみれば肉種に対しての無関心が「サガリ=下がり」という偏見を取払ったのである。LGBTだのなんだの叫ばれているが、それを理解しないこと、知らないことが差別解消への近道ではないのか。

世の中の悪はいつだって偽善である。

 

 

【高校生】

ルソー曰く私がめでたく第二の誕生を果たしたくらいの時代だ。欧州じゃこの時代までの子供に人権は無いらしい。肉の違いもわからん奴に人権があって堪るか。

ここで私は運命の出会いを果たす。

そう、ホルモンとの出会いだ。

今までしょっぱいゴムを食ってるような感覚しか持ち合わせておらず、ホルモンなどという劣等民族に見向きもしなかったわけだが、火力を出して食ってみたらどうだろう。

カリッとした食感に、ジュワッとした脂。

美味しかった。とても美味しかった。私は一瞬で虜となってしまった。

それから私はホルモン研究を続けた。正しく第二の誕生である。好きなホルモンについては直接本人に聞くとよい。勝手に語るだろう。

 

 

そして現在に至った。

やっぱ米が無くても食える。

もちろん米も食うのだが、こいつはキムチもサンチュ(レタスみたいなやつ)もナムルも食うのである。

野菜の登場で、焼肉におけるグローバル化が到来した。ついに国際化の波は焼肉にまで及んだというのだ。ちなみに食ってる肉はアメリカ産である。

5号館を「国際バカロレア分校」などと称し、笑い続けていた私すら恥ずかしく思えてきた。福田学長の言う通り、世の中は大きく変わっていたのだ。

厚切りカルビにキムチと味噌ダレを合わせてサンチュで巻く。これがとても美味しい。野菜とはかくも美味いものだったのか。そしてそれと米を合わせても美味いではないか。私はこんなことすら知らなかったのか。

 

肉も美味いし、野菜も美味いし、米も美味い。

 

陳腐ながらもこれが私の結論である。

 

よかったら読者諸賢も焼肉を食ってみたらどうだろう。何か新しい発見があるかもしれない。