ド田舎文藝部の暇潰し

都留文で人文

AO入試はSAO

こんちは。今回は入試について語りたいと思います。理由はちょっと前にAO入試が燃えてたからです。あと暇だから。

 

発端は有名な二文字の議員が「高校生と入試形態について話したよ!色々な意見が出たよ!AO入試拡大とか!!」とかツイートしたことです。

 

「身の丈」が燃えてくれたおかげで、「AOは格差を広げるだけ」という意見が多かった気がする(バズってた人の趣旨がここだったからだけど)。

 

推薦、AO入試は偏差値じゃ測れない一芸試験みたいな意図があるってのが僕の認識です。

で、その一芸は様々な物事に触れていた人、触れる資金が家にあった人(本を買うお金があったとか)に培われやすいはずです。ちなみにこういう物事とかのことを社会学では文化資本とか言うそうです。

 

まあ、つまりAO入試の拡大は格差を広げるってことですね。

 

ですが、一芸に長けた人はそれを大学で活かそうと考えているので、勉強意欲があるのも事実なように感じます。

ここで問題になるのが、「AOや推薦の形骸化」です。さっき言った意図が推薦やらAOやらにはあるんですが、「先生の言うことを唯唯諾諾と聞いた連中」や「ボランティアとか一般受けすることした連中」が受かっちゃってる現状があります。本来の意図では無い人が大学に入ってきます。うちの大学みたいに(小声)。

 

こんなもん大学で何がしたいのか目的意識がある人を入れれば済む話です。教授なんて僕らより頭良いんですから、それくらい見分けられるはずです。たぶん。

 

つまり僕はたぶん人を選ぶAO、推薦をしてくれってことが言いたいんでしょう。やるならそれから改正してくれ。

 

ちなみに言いたいことはこっからです。

格差問題からAOの批判をしてくれたのはいいでしょう。しかしながらですね、

「ペーパーテストは一発勝負だから平等」

ってのは違うんですよ。自分にかけられた塾や習い事などを思い出してください。それを受けられない人だって存在するんですが、それを知らないで「俺(私)は推薦の奴らと違って(親の金で買った参考書や塾で培った)実力で受かった」ということを偉そうに言う人がいます。世の中、塾や参考書を買えない受験生だって存在します。

 

つまり何が言いたいかって、「AOとかよりは一般入試は平等だけど、そこにも不平等は存在する」ってことです。せっかく「身の丈」で不平等性に気づいたなら、文化資本の概念も知ってみてください。

(詳しく知りたい人はそこら辺の社会学入門書の「文化資本」とか「メリトクラシー」を目次から引っ張ってください。それくらいなら案内できます。)

ついでに思ったけど、議員のツイートを叩くのはいいけど、参加した高校生を叩くのはやめろ。「答えの無い学習」をせっかくしてるのに、叩いて芽を潰すな。どうせググれば出る教育しか受けてないだろ(偏見)。

 

これはそもそも論だけど、微妙に教育学を習った自分からすると、そもそも受験が目的化されてる時点で勉強の意義って死にかけてる気がする。だからAOはAOで貴重なのではないかと思ったり思わなかったり。

 

字数あんま足りてないんで、自分の分野語りをすると、日本史教育の受験効率化は単語の暗記です。

だけど、E.Hカーっていう偉い歴史家は、「歴史に解釈は付きまとう」って言ってて、その解釈を効率化によって中途半端になってしまうというのが、現状としてあるような気がします。

 

晴れて「歴史の単語だけやたら覚えた人」が量産されると、都合のいい「解釈」に納得してしまうのではないか、戦前みたいにイデオロギー化されないのか、ってのが今のとこの疑問とテーマです。参考文献欲しいので誰か知見ある本知りませんかですか。

 

問題山積みですね。反知性主義になりたい。

 

それでは、また。